「音楽メディアってなんだ!? - 鹿野淳×大山卓也トークセッション」のtogetterまとめを読んで

音楽メディアってなんだ!? - 鹿野淳×大山卓也トークセッションのまとめ
http://togetter.com/li/492025

俺も便乗して何か書いてみたい。残念ながら俺は会場にも行けなかったしUstreamも観てないので、考えたことだけ。

1個1個の情報としては全く同じものが発信できると思うんですよね。情報の内容に優劣がないわけだから、あとは機能性とかの話になる。エコだし、場所とらないし、検索できるし、webの方が機能性は高いと思う。速報性は……俺はあんまり重んじてないところあるけどね。「その方が話が早い」ってのに大きなバリューを見出せてない。

web上の情報って、これ以上ないぐらい情報が切り刻まれてるから、エディターの意思みたいなのは反映されづらいんですよね。連番のエントリーだろうと同じディレクトリに置いてあろうと「次のページへ」でリンクされてようと、やっぱりweb上のコンテンツってバラバラだと思う。バラバラだし、そこに意味があると思う。

結局エディターの意思を反映させようとしたら、バラバラにさせない、パッケージングが必要なんだよね。月刊誌を月に1回、表紙つけて目次つけてまとめて出すってのはまさに意思、だよね。バラバラじゃなくて出したいという意思はwebのスピード感と対極にあるもんね。そのエディットには絶対意味があると思う。納得の取捨選択を感じたら、そのエディットのファンになれると思うし。

そういうの、全く要らないでしょうって人には要らないし、愛情が注げる人は注げる。全くの平行線だし、それでいいと思うし。どっちかがどっちかを論破して改心させることも不要だと思う。決定的な事実誤認があるならそれは訂正すべきだけど。

ついでに超個人的感想も書いちゃいますが、ナタリーは無機質に徹した情報の集積場なんかじゃなくて、ちゃんと編集された、場合によっては情緒たっぷりのパッケージングになってるような気がするけどね。記事も、取捨選択も、デザインも特集も。ナターシャの人が作っている部分より外側の部分も含めてナタリーだとも思うし。


俺にとっての情緒的なエピソードをふたつ。

子供の頃、「将来は雑誌編集者になる!」って言ってた時代があったんですよ(本当)。漫画家になりたいって言ってた時代の次は雑誌編集者だったと思う。パソコン雑誌が好きで……LOGiN、POPCOM、テクノポリスコンプティーク。買った雑誌を、何度も何度も読み直してたんだよね。あれはもう、雑誌じゃなくて書籍の扱いだったと今は思います。だから、ものすごく愛情があったよね。こういうものを作りたいと思ってた。

それから15年20年たってインターネットが発達して、「同じ文章が書いてあるものを何度も読んで愛でる」って行動をしなくなってしまった。なので「紙の媒体は愛し抜いたことがある、web媒体にはそれがない」ってのは事実としてありますね。これは自分の年齢と経験の問題で、今の若い人にはweb上の文章を何度も読んで愛でるって経験をやってるかもしれん。

もう1個は「雑誌を捨てる」ってテーマ。web上に細切れになって置いてある情報は自分のものじゃないけど雑誌は自分のものだからね。物理的に自分の管理下じゃない?

ある日、あまりにも邪魔だっつって業者にスキャンしてもらって捨てたわけですよ、雑誌を。でもそのスキャンした雑誌は、本当に読まないよね。データは不思議と読み返さない。本棚に差してある、スキャンしてない雑誌は……ふと手に取るんだよ! 目に入ると。所作としてはどっちも全然労力じゃないんだけど、エクスプローラをたどってpdfをダブルクリックする気にはならないけど、古雑誌はパラパラめくろうかなと思う。不思議。

なんでだろうね。これは情緒的というよりはもっと本能的、肉体的な何かなのかもしれん。わからない。


mixi日記用に書いてた文章を推敲無しでこっちに載せちゃうので、後からちょっと書き直すかも。後日ニュアンスが違ってたらごめんなさい。