誰かが発信していたとしても

Q. 過去、Twitterやブログで面白いことを発信してくれていた人が、最近なんだかつまらなくなってしまいました。極端なことばかりつぶやくようになってしまいました。なぜでしょうか。解決策はあるでしょうか。

 

A. わかります。私の周囲には幸い、そう思い当たる友人はいないのですが、そうなることもあるだろうな、ということは容易に想像できます。

つまらなくなった、なぜか。その答え、実は「全部インターネットのせい」なんです。

面白いことを発信してくれなくなったその方本人は、まったく変わらず、面白いことを日々思いついているんです。発信自体に飽きている部分もありますから昔みたいに「思いついたら何でもすぐ発信!」とまではいかないですが、友人やフォロワーに対するサービス精神がなくなったわけではないので、今も当時と変わらぬ切れ味するどい面白いことを発信したいと思っています。でも、思いついても直前でやめてしまう。なぜか。

自分が思いついて発信してみようかと思ったことを、すでに誰か発信してるかもしれないと思って一応検索してしまうんです。すると、これだけネット人口(≒Twitterユーザー)が増えてしまうと、やっぱり同じことを思いついて先に発信している人がいるんです。さすがに何千万といるユーザーの中で思いつき一番乗りは難しい。で、「そうだよな、誰か思いついてたよな、発信済だよな」と思って、発信をやめてしまうんです。これが「面白い発信が減ってしまったこと」の理由です。
その上で、いいねRTのつきやすい「極端なこと」は切れ味するどい短文ではない、140文字めいっぱいまで使った尖った内容であることが多いので、全く同じ文章を書いている人がいるわけもなく、そのまま発信されるわけです。これで偏ってしまうんですね。

解決策ですが……。まず読み手側の解決策は、残念ながらありません。そもそも他人の発信を無料コンテンツとして消費しているだけの立場ですので、悲しいですが甘んじて受け入れるか目をそらすしかありません。ほかにできることは祈ることだけです。

書き手側としての解決策は、なくはありません。まず、友人やフォロワーに対するサービス精神を思い出して「自分が世界で最初じゃなくても、手垢がついていようとも、面白いと思ったことは発信しよう」という気持ちになることです。小沢健二が歌った「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんてそんな馬鹿な過ちはしないのさ」を部分的にでも適用するのです。

その上で……たとえば「#同じことを誰かが言ってるかどうか検索せずに発信する」というハッシュタグを流行させるのはどうでしょうか。実際には検索してみていいし、検索の結果誰も言ってなかったとしてもあえてこのタグをつけてつぶやくということを続けるのもよいと思います。

以上、面白い発信=切れ味するどい短文、と決めつけちゃいましたけども、質問の返答になっておりましたら幸いです。

正月番組の「ドリームマッチ」を思い出してからClubhouseについて考える

 そもそも「即興で制限時間以内に○○」みたいなものがあまり好きではありませんでした。正月にやってるバラエティ番組の「ドリームマッチ」のシリーズも今のパターンの方が好きです。少なくとも「たった今コンビになった二人が、3時間以内に面白いネタが作れるか?」みたいな企画は、ゲームとしては見所があるかもしれませんが、観ている側からすると「悪い条件の中で精いっぱいやった」という条件のおかげで、精度の低いものを受け取らなければならない……みたいに思ってしまうんです。面白かれば面白かったで「これ、本当に3時間で考えたの? セットまで?」のように勘繰ってしまったりとか。限定コンビでも準備期間は十分欲しいですよね。いわゆる「無茶ブリ」で面白くなるのは平場のトークぐらいで、コントみたいなものは十分に練られた、推敲を重ねたものの方が面白いに決まってる、と思ってしまいます。


 もしかしたら自分の年齢の問題かもしれませんね。一生懸命、即興で頭を働かせる出演者と同じ気持ちになってそのライブ感を楽しむ、みたいな心の余裕がないくらいに、俺がくたびれているのかもしれません。大槻ケンヂだったかデーモン閣下だったか全然違う人だったか忘れてしまったんですが、「ロック音楽に求められる革新性は1割くらいで、残りの9割は予定調和、ぐらいがウケる」ってどこかで言っていて、なるほどと膝を打った覚えがあります。たしかに何もかもが新しいとついていけない。自分が知っていることが居てくれる居心地のいい範囲の中で、少しだけ予定外の刺激があるというのがちょうどいい。わかります。年を取ったので尚更わかります。今までに出会ったことがなかったみたいなものにドーンと出くわして感激して涙をポロポロと流す……みたいなことがほとんどなくなってしまった今は、半分以上が未体験のものだとついていけない、受け止めてみせてるつもりで全然心が開けてない、耳に入ってこない、おおむね予定調和で提案してくれないと対応できない、みたいなことが多いような気がします。……即興の話とはちょっと違うかな。


 正月番組もそうですけど、正月に限らず俺、テレビを観るのに、Panasonicの全録、正確には6チャンネル録画のレコーダーを使っています。これが便利で、もうなかった頃に戻ることはできません。観たい番組があったら予定を済ませて慌てて帰宅して、家族とのチャンネル権争いに勝利した後騒がないように黙らせて、食い入るように観ていた頃(っていつの時代だよって話ですが)では考えられなかった。Eテレを除いたキー局の番組が全部録画されているから、後から観たかったものだけ観られる。話題になったものだけ確認できる。お風呂に入らなきゃいけないけど先が気になってその場から動けないということがない……だって全部録画してるんですから! こういう便利な生活を手に入れてしまうと、「みんな注目してるし、話に乗る為にも生で観ておくか」ということがほとんどなくなります。さらに……ぶっちゃけた話、話題になったところは、必ず切り出されてTwitterに違法アップロードされるので、それだけ観てしまって納得してしまうこともままあります(これは違法にアップロードされた映像じゃないか! 俺は観ないぞ! とリツイートされてきた映像を再生しない、という信念を貫くほど自分は潔癖ではないのです)。


 ライブハウスでのトークライブや、ラジオの生放送のトークが面白いのは、しっかり編集していたら出てこないようなぶっちゃけ話のこぼれ方と、自分がその場でリアルタイムに存在し反応するライブ感が楽しいと思うんです。でも最近はそのネタに話題性があれば必ず「あのトークライブでのぶっちゃけトークで、あいつがこんなことを言っていた!」というのは後からかならず話題になり、まとめられます。場合によっちゃその場にいなければ聞けなかったはずの音源がこれまたどこからともなく違法アップロードされて、生々しく後追いできるかも……と日々感じています。足を運ぶ、時間をあわせるというような手間をかけなくても、いわゆる「おいしい部分」だけを後追いすることが可能な時代になりました。


 即興で出てくる新しさにそれほど魅かれなくなり、ライブ感よりも自分の都合をあわせずに済む便利さに溺れ、全部を体験しなくても話題になってる要所だけをつまみ食いして消費することに慣れてしまった2021年に、出会ったSNSがClubhouseです。文字でやりとりはほぼできないというところにびっくりしましたし、一人が二人までしか呼び込めない招待制というところに引き付けられました。誰にも誘われない、自分は必要とされてない……と感じるよりはやっぱり招待されたいし、できれば自分の希望通りの短い文字列でのアカウントを取得したい……みたいなことを考えました。幸い昔からの友人にノミネートしてもらうことができたので中を覗いてみると、日本ナイズされた痒い所に手が届くSNSとは違う、武骨な手触りのあるサービスがそこにありました。


 iPhoneのみでandroidとPCは無視、録音(記録)はできない、携帯電話の連絡先に入っている人と連携してしまう、さらに、現時点では退会自体が仕組みになっておらず、メールでの依頼になる……という日本で立ち上げるとしたら出資者から反対されそうな特徴のあるサービスです。もちろんこれからどんどん便利になっていくと思いますし、本場アメリカでもこのタイミングで日本人がこんなに食いついて話題にするとは思ってなかったと思います。やっぱりきっかけは自粛期間以降のZOOMを使った映像付き通話の普及によるものでしょうか。講義や会議だけでなく飲み会のような友人間でのダベりにClubhouseは活用されている模様です。


 俺が感じたのは「ああ、どこまで行っても電話と電話帳だな。それ以上でもそれ以下でもない」ということでした。アメリカでの車での長距離移動の際に、ドライバーがコミュニケーションをするのに使いやすいツール、と聞いてものすごく合点がいきました。たしかにそれです! コメントだのいいねだのという画面を見なければならない情報機能は不要、ダッシュボードに置いて運転しながら画面を見ることなく会話をするということにまさに特化しています。


 日本人が直近で出会って爆発的に話題になったClubhouseを、どんなエンタメや、どんなアカデミックなコンテンツに使えるだろうか……と今いろんな人が試行錯誤していらっしゃいますが……その点については俺は一歩ひいた位置で見ている感じです。なぜなら「どこまで行っても電話と電話帳」でしかないから。そして俺が「即興を面白がれず、自分の都合をあわせることを拒み、まとめに慣れきってしまった人間」だから。面白い、ためになる発信をして、それを評価したり誰かに推薦したりしようとしたら、「電話と電話帳」ではあっという間に限界に達してしまって、パソコンを使ってやりたい、少なくともパソコンも使える環境で行なうことを求められるだろうな、と思います。なので……現時点ではこれ以上流行することはない、と思ってます。


 ひとつ成立するとしたら……友人と同じテレビ番組を観ながらだらだら感想を言う、という楽しみ方はあるかもしれない。それは「運転しながらしゃべる」とほぼ同じだから。それも少人数で、有名人を含めた「友人じゃない誰か」でない人とのコミュニケーションとして、であれば。Twitterで実況しながらテレビ観る人が一定数いるので、その代替としての使い方はあり得るなと思います。


 ですので、もしもMOK Radioをまたやろうぜってなったとしても、ZOOM+YouTubeとかでやりましょうよ、と提案すると思います(笑)。だってどうせなら、電話帳に入ってる友達だけじゃなくてたくさんの人に聞いて欲しいですからね。そん時ゃ俺、顔出し出演も辞しませんよ!


 あと全然関係ないですけど、最近オンライン麻雀のサービスが充実してるみたいなのでZOOMと組み合わせて顔見ながらリモート麻雀やりたいなー。MOKの皆とやりたいのはもちろんですが、東風荘で朝4時まで毎日囲んでた、ドラミやぶらっさーるやぐぅこと一緒に麻雀やりたいなーなんつって。最後完全に私信ですけども。

「#検察庁法改正案に抗議します」の件で少し遠ざかった話

ハッシュタグを見かけてツイートした

 先日「#検察庁法改正案に抗議します」っていうハッシュタグを見つけたんです。早ければ数日後に強行採決されるって書いてあって。経緯はニュースで見てなんとなく知ってたし、このタイミングで強行採決、法律の私物化は絶対良くないと思ったから、俺もそのハッシュタグつけてツイートしたんですよね。

 タイムライン見ているといつもあまり政治の発言をしない人も同じようにハッシュタグ付けてて。しばらくすると芸能人や有名人も同じハッシュタグ付けて投稿してて。「珍しいことだけど、その理由はなんとなくわかる」と思ってたんですけど……その共感はまったく勘違いだったのかもしれない、という話を書きます。

このハッシュタグの良かったところ

 そもそも俺は、政治関連のハッシュタグを付けてツイートすることはほとんどないんです。理由は簡単で「その通り! 同意! 俺も俺も」と思わないから、なんですけど。
 ハッシュタグって同じ意見を持つ人の発信を束ねる時に有効な機能だと思うんですね。逆の使い方をする人もいるけど、それは意地悪な使い方だと思うから。ハッシュタグ経由で自分の一言も見てもらいたい、ハッシュタグで束ねた人たちの意見に自分の一言が合流しても不本意じゃない、そんな時に使うと便利なものだと思ってます。

 で、この「#検察庁法改正案に抗議します」ってハッシュタグのいいところは、「この法案の(十分審議されない状態での強行採決に)反対します」っていう、ピンポイントなところだったんですね。そりゃ反対だ。だって私物化だもの。それはダメでしょ! と思う。それはつまり、右でも左でもない自分にも発信しやすい、というメリットがありました。これを発信することによって「あいつはどっちなのだ」と思われなくて済むと思いました。法律の私物化はダメ。これは政治信条に関係ない。

 俺は元々、できることならば「政策を憎んで政治家を憎まず」というスタンスでやれないかと考えている甘っちょろい人間です。覚せい剤で捕まったミュージシャンの事件を聴いても彼の作った作品や思い出はまったく色褪せない。それと同じように、今やっている政治がダメダメでも、政治家を憎しみをこめて呪いの言葉をぶつけるんじゃなくて、ダメな政策を否定しながら、任期の途中の政治家に正しく仕事をしてもらいたい……という甘えた考え方の持ち主です。それがダメなんだろうな、とわかってるんですけどね(政治家は公人ですから)。

 でも今、俺のTwitterのタイムラインには、いわゆるネトウヨと呼ばれる人たちがいわゆる反アベと呼ばれる人たちを罵り、いわゆる反アベと呼ばれる人たちがいわゆるネトウヨと呼ばれる人たちを罵る、そんなハッシュタグ付きツイートがちょうど半々ぐらいに流れてきます。口汚く罵っているツイートを見て、少し考えて、ああアイドルちゃんの好きな楽曲の話の方が楽しいやなんつって目をそらす、なんてことばかり毎日しています。

でもそれは勘違いでした

 今回自分がハッシュタグをつけたのも、これは右でも左でもないし、罵るような、個人を否定するようなタグではないから気持ちよく付けられた。自分の一声が大きなうねりの一部になって、それで強行採決が見送られたらこんなに素敵なことは無いな、と思いました。
 そして、俺と同じように考えた人が多かったからこそ、今回のようにたくさんのハッシュタグ付きツイートが集まったんだろう、と思いました。そりゃあSTAY HOMEで暇だったからということも多分にあったと思いますけど、やっぱり右でも左でもない、罵りの言葉でも個人否定でもないところがたくさん集まった理由だろう、と思いました。

 でも違っていたようです。自分の信頼している何人かのフォロワーさんが言ってたんです。結局は「もともと私は反アベである、今の政治は許せない、アベはやめろ!」と思っている人たちが多数いて、それが集まっただけなんだ、と。今回はあまりにもフォローのしようがなくて、ネトウヨと呼ばれている人たちが反対しようがなかっただけなんだ、と。
 その後同じハッシュタグはいつも反アベ的ツイートをしているフォロワーさんによっても繰り返されて、セットで「#安倍は辞めろ」のようなハッシュタグとセットで発信されるようになって、ああ、そうだったのか、俺の勘違いだったと納得して現在に至ります。

芸能人さんと政治的発言

 その後「#検察庁法改正案に抗議します」を付けてツイートした芸能人さんが次々に謝罪をすることになりました。

 ちなみに俺は、芸能人さんが政治的なツイートをすることについては「どちらかというと反対」というスタンスです。それは芸能人さんの知名度が、本人ひとりだけが頑張って作ったものではないからです。芸能人だってひとりの人間。どんなことを発言したってかまいません。でも、芸能人として出しているアカウントを使わず、匿名の一個人として発言することだってできる環境、あるじゃないですか。
 芸能人にはスポンサーがついている。スポンサー企業の背景にはいろんな政治的なしがらみがたくさんあるのは紛れもない事実です。そういった背景に「うちの子はうまくやりますからスポンサー料ください」っていうビジネスで成立している仕事、それを周囲のスタッフが汗水たらして頑張ってるビジネスなのだから、配慮は当然必要です。裏アカウントで、完全な個人として、知り合いにだけ発言すれば済むこと、と割り切るべき……というのが自分のスタンスです。

 でも「#検察庁法改正案に抗議します」ってハッシュタグは、そんな芸能人さんたちにも発信できる、中立でまっとうなタグだと思ったんだけどなぁ。だってイデオロギーに関係なく、議論の足りない不完全な法案の強行採決を反対する、という一点に集約されてるんですから。だから俺は「政治的な発言はどちらかというと反対」というスタンスだけど、このハッシュタグだけはセーフ、と思っていました。でも違いました。

 今回のことで「芸能人だって政治的な発言をしたっていいんだ! ひとりの人間なんだから!」と歓迎するツイートを複数見かけたんですが、今回のことで今後、芸能人さんが政治的な発言をすることは減ると思います。その理由は「右でも左でもない、中立なスタンスでの政治的な発言なんて無理」だから。あるいは「中立な発言だったものも必ずどちらかに寄せられてしまう」から。

サラリーマンである自分に置き換える

 いわゆる反アベの人たちは、ずっとイライラしてると思うんですよね。こんなクソみたいな政治が続いているのに、安倍は辞めろと言わず、内閣へ非難を表明せず、のほほんとくだらないことばかりツイートしてる人たちばかりだということを。こいつらアホだ、愚民だ、日本という国は衆愚のるつぼだ、と思っているかもしれません。自分で考えれば考えるほどに今の政治が腐っているという事実に整合性が増してしまう。周囲からの情報も取り入れつつ自分の頭で考えてみた結果、いろんなルートを辿ってみてもやっぱり「安倍が悪い」という結論にたどり着いてしまう。にもかかわらず皆が皆、同じような結論にたどり着いているように見えない。馬鹿なのか? 気づかないのか? どう考えてもダメでしょ今の状況では! 発言しろよ、安倍を否定しろよ! そう思っているのかもしれません。

 自分もそう思っている時代もありました。でもサラリーマンになって少しずつ人を使う側に近づいてきて、自分のたどりついた整合性、こうあるべきだという理想、ビジョンに共鳴してそれぞれが自分の矜持を胸に誠実にアウトプットを追求する……みたいなことだけでは会社は動かないな、と感じるようになってみると、政治に対する怒りみたいなことにも距離が置けるようになった、ような気がします。

 企業の中でペーペーとして働き始めて、これはいくらなんでもおかしいぞ、仕組みを変えよう、方向性を変えよう、と思った時。経営層をクズだと罵っても、「あいつらバカだよね? お前もそう思うだろ?」と周囲に言って回っても、何も変わらなかったよなぁ、と感じています。「(今は違うけど)本来はこうあるべき」という意思をブレさせないで持ちながら、自分のやれる範囲で結果を出して信頼を築いて、管理職に近づいていって少しずつ思ったとおりの結果にする。周囲につきつけるアウトプットは、自分の信条自体ではなく、相手の信条にかかわらず否定できない「あるべき姿の施策」。それを積み上げていくことが「自分が思ったように会社を変える」ということでした。まあ、大した結果、出せてないですけどね。

遠ざかったと思います

 今回のハッシュタグの件で、ひとつひとつの小さな積み上げで少しずつ政治を変える、といういい結果が出るんじゃないかと思ったんですけど、ダメでしたね。これで今回、強行採決が避けられたとしても、ハッシュタグに参加した「ピンポイントであれば中立な立場で政治的な賛成/反対を表明したい」という人たちは少し遠ざかったと思います。なんか巻き込まれちゃうから。

 やっぱり選挙しかないんですかね。難しいですね。自分は引き続き、いろいろ考えていきたいです。

水虫が完治した話

 四年前に水虫になって、三年前に完治しました。その後再発しないので、俺の対応方法は正しかったのだと判断してこれを書いています。今、似たような症状になった人の参考になりましたら幸いです。


 事の発端は市民プールでした。休日、子供を連れてプールに出かけた時の、ロッカー室のビチャビチャの床が良くなかったんだ、と思います。1週間以上経ってから、足が猛烈にかゆいなと職場で革靴を脱いで床に足をこすりつけたりしていたのですが、自宅で靴下を脱いでみたら、完全に水虫でした。

 両足、足の指の付け根が半端なくかゆい。指と指の間がふやけてただれており、透明な液体が噴き出してぐじゅぐじゅしています。手の指でかきむしると皮が破けてさらにただれて、「ああ、指に着いたこの液体で別の場所を触ってはならぬ」という強い禁忌が頭に巡ります。でも猛烈にかゆい。我慢できない圧倒的なかゆみ。夜中寝ている間に、知らず知らずにかきむしってしまったらしく、ふやけた場所は広がる一方でした。

 薬屋で水虫用の安い軟膏薬を買って塗ってもまったく効果がなかった。ネットで初めて見つけた水虫対策のページに「木酢液が良い」と書いてあったのでAmazonで買って吹き付けてみたら、効く効かない以前に強烈な燻製的な匂いで、これを漂わせながら職場でうろつけないなんつって諦めたりなんかしたわけですが、最終的には以下の対応によって完治させることができたのでご報告します。

  • ピーリングする

 とにかく自らの足の皮を剥いで、新しい皮膚にするしかない、と思いました。でもささくれを剥くのとは違うわけで、真皮の部分を力任せにはがすわけにはいきません。自分が使ったのは家庭用のクエン酸です。クエン酸を溶かした水に両足を漬けて、少しずつ足の皮をピーリングしました。毎日やることで足の裏の皮が少しずつ薄くなっていくのは、水虫の症状の出ていない、かかとの部分の白いカサカサがなくなって柔らかくなっていくことからも感じていました。

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 クエン酸水に漬けるために、俺はお風呂ブーツを使用しました。お風呂掃除をする時に履く、あのプラスチックのサンダルです。ほぼ足と同じサイズに水が貯められるので便利でした。大きめの100円均一ショップで買いました。お風呂ブーツを使う前は、ポリエチレンの袋にクエン酸水を入れて足首を輪ゴムで留めたりしていたのですが、お風呂ブーツにたどり着いてからはそれ一本でした。テレビを見ながら毎日30分以上、抜けた日もありましたが半月程度は続けたと思います。

 その他に、クエン酸を濃い目に溶かした水をアトマイザーに入れて持ち歩き、出先でかゆくが強くなった時、あえてトイレの個室に入って患部に吹き付けました。猛烈な痛みとかゆみ! これ我慢するくらいなら爪でかきむしりたい! という欲望を抑えて耐え、紙で患部をぬぐいました。こちらも半月程度は続けたと思います。

  • 五本指靴下を履く

 こちらは、水虫が直った今も履き続けています。単純に気持ちがいいし、足が臭くなりにくいからです。五本指靴下の良さは、通気性です。足の指と指とが近い位置にあれば、そこが湿っていきます。靴下の木綿が湿気を吸ってくれるだけで、全然かゆみが違ったように思います。

 ちなみに、自分が水虫になって最も恐れたのは奥さんや子供に感染させてしまうことでした。ネットを調べると「水虫の菌ははがれた皮膚にも居座り、そこから感染する例が多数ある」とあったからです。風呂場のバスマットやお風呂ブーツを分けるのは当たり前、家の中では靴下を脱がず、できる限り頻度高く履き替えるようにしました。風呂場ではできる限りかかとで歩くようにしていました。まとわりついてくる子供に「お父さんの足に触るな!」と振り払い続けました。その甲斐あってか、家族に感染させずに済みました。本当は洗濯物も別にした方が良かったのかもしれませんが、その点については洗剤と日光の力を信じて家族の洗い物とまとめて洗濯機で洗っていました。隔離するのはしのびないと、奥さんがあわれんでくれていたのかもしれません(笑)。

  • ピロエースZクリームを塗る

 最初に買った軟膏は全く効き目がなかったのであっという間に捨ててしまった為、銘柄すら覚えていません。検索してみると、現在市販されている水虫薬の中には、もともと皮膚科などで処方されていたものが一般販売されているものが複数あることがわかりました。平たく言うとそれは値段の高い部類の薬で、だいたい1パッケージ1500円以上のものがほとんどでした。そんな中で自分が選んだのはピロエースZクリームでした。

 患部はもちろん、足のすべての指の間にピロエースZクリームを塗りこみます。最初の半月は指の間以外にも足の裏から指の上面まで全てに塗り込みました。ここをケチったらおしまいだと思いました。1500円は安くありませんでしたが、水虫のかゆみが続くより全然ましだからです。

 ピロエースZクリームについては、患部がよくなってかゆみがなくなっても、親の仇と言わんばかりの勢いで毎日毎日塗り続けました。1年程度、毎晩寝る前に塗っていたと思います。とは言っても塗る場所は足の指の間だけでしたから、使い切るまで塗り続けたのは4本だったと思います。「絶対に再発させない」と決めていたので、かゆみがなくなってもそれに甘んじずに根気よく塗り続けました。

 一点思い出しましたが、風呂で足を洗う時にはブテナロック足洗いソープを使っていました。効果はよくわからないのですが、風呂に入っている時にこれを見ると「そうそう、念入りに足を洗わなくては」と思い出すことができました。こちらも使い切るまで使用を続けました。

ブテナロック 足洗いソープ 80g (医薬部外品)

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 こうして俺は、水虫を完治させることができました。再発していないのだから完治と呼んでいいでしょう。思えば子供の頃、父親から「水虫を治せる薬を作れたらノーベル賞もんだ」と繰り返し聞かされていました。たぶん実はその時にすでに、水虫を治す薬はあったのだと思います。父親は、塗ったその瞬間に一発で治す薬を求めていたのだろうと思います。俺は一発を求めず、「時間がかかるのだから絶対に諦めず、本当に治ったと言える日まで続ける」と誓い、それが実行できたから現在の成功があるのだと思います。

 関係ないかもしれませんが、時を同じくして職場でも認められ昇進し、多くのメンバーをまかされて決裁権の額も上がりました。それもこれも、水虫を絶対に治すぞという強い信念で、精神が鍛練されたおかげなのだと確信しています。

 集中的にピーリングして、薬を塗り続ける。五本指靴下を履く。ぜひお試しください。

 以上、水虫に悩んでいるあなたの選択の一助になりましたら幸いです。長文お読みいただきましてありがとうございました。

他人が本気で頑張って失敗した姿を見て笑ったあとに

 学生の頃、「赤ちゃんや子供はなぜ可愛いのか」について考えて、「それは自分よりレベルが低いからである」という結論に達したことがあります。赤ちゃんが自分より力が強かったら、賢かったら……と考えた結果でした。あどけなく笑う姿も、意味も無く手足を動かす姿も、無垢で、裏がなくて、そして自分に害を与える心配がないからこそ、可愛いと感じるだ、赤ちゃんにとって自分が見下して当たり前の存在だったら素直に可愛いとは思えないのだ、というのが自分がたどりついた結論でした。

 友人にそれを伝えると、彼は数日考えてくれた上で返事をくれました。「お前の言っている要素も一部あるけれど全てではない。赤ちゃんは丸くて柔らかくて、存在自体がそもそもやさしさの塊だからだ」と彼は言いました。たしかにその通り! 丸いのは角ばっているものより自分に優しいし、柔らかいものは固いものより自分に優しい……という意味では自分のたどり着いた結論とあまり違いはなかったのですが、「存在自体がそもそもやさしさの塊」というのは、表現の違いこそあれ、納得のできるものでした。存在そのもの……実体も概念も、全てです。存在そのものが優しさでできていて、無条件になごんでしまう。なごんでしまうようにプログラムされている本能なのだとしても、何の疑問もないな、と考えました。人間と言っても動物なんだから、本能も間違いなくあるのだと感じました。30年も前の話です。

 

 先日こんなツイートを見かけました。


 いろいろ考えて、前述のくだりを思い出したりしました。


 まず前提として俺は、話題として挙げられているこの映像を観て、何度でも笑ってしまう人間です。映像で笑って、千鳥大悟のコメントを聞いてまた笑ってしまう。なのでこのツイートに同調されている方々からすれば、俺という人間は気分の悪い存在なんだろうな、と思います。その程度の人間です。これがスタートライン。


 次に、この映像で腹を立てる人たちは、何を見て笑っているのだろう、ということが気になりました。彼らが日々見て笑うのはなんなんだろう、この映像はNGで、どんな映像で笑うのはOKなんだろうというのは素直に疑問に思いました。

 人が何かを笑う時には、規模や形は違いこそすれ、何らかの「見下し」や「茶化し」が存在する、と俺は思っています。自分側に何らかの余裕があって、自分の思い通りだったり、ほんの少し意外だったりして、瞬間的な満足が得られた時に人は笑う。

 過去、自分がどんな時にふきだしたのか、何について笑ったのか、なぜ笑ったのかを考えてみます。
 子供の返答が素直で、世知にまみれておらず純粋だったから。
 特異なキャラクターが常識はずれな行動をして「何やってんだこいつ」と思ったから。
 誰かが誰かの物真似を上手にして見せてくれて、それがそっくりで気分が良かったから。
 ふざけていたから。不謹慎だったから。

 誰かが不幸になることで相対的にたった今の自分が幸せに感じられるということもあるかもしれないし、たった今の自分の不幸が自分だけではなく皆と同じで安堵が得られるということもあるかもしれない。

 尊敬する対象の行動がただただ素晴らしくて、大きな敬意とともに満足で笑顔がこぼれる……ということはあるかもしれないけれど、ふきだして笑ってしまった幸せな瞬間とは少し違う……なんてことを考えました。


 どんな笑いだったら他人を傷つけないでしょうか。俺は、どんな笑いであっても、他人を傷つけてしまう恐れと常にセットであると考えている……んですけど、そんなのはものすごく当たり前で、大げさに言うことでもないような気もしてきました。そんなことは誰でもわかっている、まさにそのことです。

 前述のツイートから拡大して話題になっている、「近年のバラエティ番組のいじめの構造」みたいなものは、自分も日々気になっているし、苦手です。国民的な人気を誇る日曜日8時の番組も、子供からお年寄りまで楽しめるというテイなのに、常に罰ゲームじみた企画が盛り込まれていて、若いお笑い芸人さんたちが本気で苦しむ姿に、小ばかにするような面白おかしいキャプションをつけています。子供が大笑いしながら観ている横で、俺はずっと「かわいそうに、かわいそうに」と繰り返しこぼしています。だってかわいそうなんだもの。蛇が嫌いなのに。高いところが苦手なのに。痛いのに。

 この「かわいそうに」に同意してくれる人は多いと思います。でも俺は、あの番組を観て、笑ってしまうことも多いんです。だから否定はできない。どちらかといえば番組側に自分がいる、と感じています。自分には「苦手だから観ない」の選択肢がありますし、自分は「笑いとはなんだろう」と突き詰めて考えたことがあって、その結果、ああいったものが笑いの原点の延長線上に必ず存在することを知っています。だから否定はできません。


 誰かが何かを笑う。その行為を不謹慎だと怒って自粛を求める。ここ数十年の間、ずっとそんなことをくりかえしています。その結果「自分で自分を下げてみせる笑い」だけしか許されない世の中になりつつあります。コーンフレークすら笑いの種にしてはいけない世の中になりつつあります。他者を見下して笑うことが許されない世の中になって、不謹慎だと責められて、自嘲しか許されなくなっていったら、そりゃあふさぎ込む人も増えるだろうな、という気がしています。

 なので皆さんにお勧めしたい。人はなぜ笑うのか、どんなことで笑うのか、ということを一人一人が考え抜いてみるんです。その構造がわかりさえすれば、少なくとも、当事者でも何でもない自分が、他人が他人を見下して笑っていることに腹を立てて粛清したい、なんて思わなくて済むようになるんじゃないか、と思います。今の状況を続けていった先に、皆が笑顔の幸せな未来が待っている気がしないんです。不謹慎な笑いを誘うなって言い出したら、結果的に誰も人前で笑えなくなる気がするんです。

 面白かったら笑う。誰かの笑っていることが不愉快になることもある。当事者だったら怒る。第三者だったら受け流す。自分たちが人間という動物であることを再認識して、本能と理性の両方を許容する。なんかそういう未来がいいんじゃないかなあ、と思っています。

在宅勤務になってみてずっと体調がいい

 在宅勤務に切り替わる前は、片道1時間の電車通勤で、1日大した仕事をしていなくても何となくくたびれてしまい、好きな晩酌も避けて寝てしまうような日が多々あった。でも在宅勤務で出かけなくなってしばらくして気が付いた。毎日体調がいい。

 

 Twitterで「一部の地域の小児科で、患者が激減している」という書き込みを見かけた(1件だけですが)。肺炎、気管支炎、喘息などの来院が少ないんだとか。なんとなく自分の体調の良さと共通点があるように思ってしまう。

 

 まったくの素人の思い付きに過ぎないが……結局人間は、常に未知の「悪い外部要因」と戦っているんじゃないだろうか。それはウイルスだったりばい菌だったり。未知とは、本当に世の中でまったく研究されてない新しいものだったり、その人個人がたまたま触れてこなかったものだったり。先々月まで、ちょこちょこ体調悪くなってたのは、結局自分の身体が、何らかの「悪い外部要因」と戦っていたんだな、と。戦っている間、体調が悪いと感じていたんだな、と。

 

 未知のウイルスが体内に入ってきて、体調が悪くなる。子供だったら咳き込み、熱が上がる。中年だったらそこまでは行かないが、なんとなく具合が悪くなって休息を求める。横になってやり過ごすと回復する。毎日がその繰り返しで、それによって少しずついろんな悪い外部要因の「免疫」がついてくる。多少のことでは発熱したり肺炎になったりしなくなる。新型コロナウイルスに限らず、多かれ少なかれ、大なり小なり、日々そんなことの繰り返しなんじゃないか……と想像している。

 

 ……これは結局「なあに、かえって免疫力がつく」案件なのかしら? 今までどおり、それこそ新型インフルエンザ程度では誰もが動じなかったように、感染したら感染したで耐えて乗り越えて免疫をつけていくしかないし、何%かは命を落として行くけれども社会全体を考えたら致し方ない……ということを、受け入れていく、受け入れざるを得ないと考える流れに変わっていくのかしら。それとも、在宅勤務でも何でも、悪い外部要因にさらされずに済むならそれに越したことはない、もっともっと除菌に気を使って、もっともっと在宅にこだわって、ソーシャルディスタンス、マスク着用、除菌対応が大前提・絶対必須の世の中……に近づいていくのかしら。次の新型インフルエンザが流行したら外出禁止。知らない○○風邪が流行したらロックダウン。

 

 いずれにせよ、歴史的なレベルでの経済のストップが続いたり、一般人同士が監視し合って粛清を求めたり、そういう世の中の流れに拍車がかかるのは勘弁してほしいなぁ、と思う。体調が良くて毎日晩酌が美味しいのだけど、未来に不安があるのは具合の悪いことだなぁと考える2020年の春である。

見てるものの奥にいつもうっすらリリー・フランキーがいた

見てるものの奥にいつもうっすらリリー・フランキーがいました。

最初に感じたのはコラムでした。若い頃J-POPやアイドル歌謡曲しか聴かない俺でしたが、最も仲の良かった友人はグランジやらブリットポップやらを愛聴していました。インターネット遊びがなかった当時は主な情報源のひとつがロック雑誌で、彼らが好んで読んでいた雑誌が「CROSS BEAT」でした。リリー・フランキーはそこでコラムを書いていました。友人はインタビュー記事に関して話題にすることはほとんどありませんでしたが、コラムで笑った話はよくしていました。

次に感じたのはコラムをまとめた書籍でした。当時つきあっていた恋人がリリー・フランキーが大好きで、コラム本が出るたびに購入しているようでした。面白いからと貸してよこしてきたので俺も何冊か読みました。部屋に戻ったら見知らぬ気違いがベッドの上でぴょんぴょん飛んでいて、話しかけると開口一番「俺、感動してんだぁ!」と答えたというエピソードを記憶しています。

その後、過渡的にいろんな場所でリリー・フランキーの名前を見るようになりました。コラムニストかと思っていたら多才な人のようで、本当にあちこちで名前を見ました。結婚して奥さんが持ってきた本のうち一冊が「東京タワー~」でした。残念ながら俺は未だに読んだことがなく映画も観ていません。俺が買い集めているCDのうち一枚は、安めぐみとのユニット、リリメグの「おやすみ」でした。女優の歌うアイドルソングが好きなのですがこの曲の印象はあまりありません。

「俺の見る景色の向こう側にいる!」と決定的に感じたのは、つんく♂の上京のツテがリリー・フランキーだったと知った時でした。東京に来た時のつんく♂リリー・フランキーしか拠り所がなかった! 自分の肉体の何割かはつんく♂の創る音楽でできていると断言する俺にとって、裏にリリー・フランキーが居たと知ったのは衝撃でした。シャ乱Qのアルバムジャケットを担当した程度だと思っていたからです。

その後も、俺の好きなものの裏にうっすらリリー・フランキーがいると感じることは多数ありました。リリー・フランキー吉田豪指原莉乃ハロプロやそのほかについて語るテレビ番組「真夜中」は印象深く観ていました。トークの内容は全然覚えてないんですが、ハロプロのこと知ってそうで知らない、知らなさそうでハズしたことを言わない感じが絶妙だったのは覚えています。「真夜中」という番組はその回しか観ていないんですが、タイトルからスタッフロールまで、リリー・フランキーの縦書きの手書きで、とても達筆なだけでなく俺の好きなタイプの筆跡だったもので、あの字ばかりが強く頭に残っています。

映画「モテキ」でタクヤさん役をやったのもリリー・フランキーでしたっけ。すごいなあの人。なんかすごい。映画は観てなくてすみません。

俺の好きなアイドル、アンジュルムのメンバー竹内朱莉さんは「おでんくん」と呼ばれています。そう、リリー・フランキーのキャラクターです。

これまでずっとなんやかんや距離を保ってここまで来てしまったので、今さら彼の作品に近づくことに気後れしていたのですが、映画「凶悪」という作品が素晴らしいということだったので、ならばそれは観なくちゃな……と思っていたところにピエール瀧の逮捕がありました。もの凄くびっくりした。そしてネットで見掛けたゴシップ記事に「次に捕まるのはサブカルの大物」というのを読んで、勝手にこれはリリー・フランキーのことなのだなと決め付けて、逮捕された後にこのブログを書くのも馬鹿みたいだと思うので、それで今これを書いています。宮藤官九郎かもしれないけど。

つんく♂のツテがリリー・フランキーだって知って、尖ったところある、ぐらいのコラムニストかと思ってたら全然違った、才能と人脈のもの凄い人だったんだと知って、それからずっと妄想を膨らませている俺です。

芸能界というのは……テレビや映画だけでなく、そこに関わるステージや文筆関連まですべて含めて……人脈ありきのものなのだなぁとしみじみ想像しています。それこそ「六本木野獣会」みたいな、それこそサロン的な、特定な場所自体は存在しなくても、プロダクション的な括りでなかったとしても、全体に影響する人脈、ネットワーク的なものが存在するんだなあ、と。例えば武井壮とかはるな愛とか、テレビの人気者になるずっと前から芸能界のビッグネーム達と古くからずっと懇意にしてたんですよね。テレビの有名人になる前から継続的に仲良くしていて、脚光が当たるのを順番待ちしていた印象。もちろん、同じように人脈の中にいても最後まで脚光が回ってこない人も居るんでしょうけど、一度認知されてしまえばテレビの画面から消え去ることはない。だって人脈の中の人なのですから。

前に「R-1ぐらんぷりで優勝しても、それがコンビの片割れでなく生粋のピン芸人だった場合、テレビにはあまり出て来ない。なぜなら生粋のピン芸人は人脈に属するのが苦手でコンビすら組まない人たちだから」と書いたことがあります。あれも同じ。AKB総選挙で順位が高いわけでもないのにずっとテレビに出てる峯岸みなみとか。あれも同じだと思う。

じゃあその人脈に入るために何が必要かといえば、言ってしまえば「才能」なんですけど、それは何かの分野で突出してるというよりはバランスによる魅力なんだろうなと思います。平均と比較したら抜群の頭の良さ、勘の良さを持っていて、自分の役割を知っていること。タイミングを間違えないこと。そして、人脈に対して強い誠意があること……などでしょうか。もちろん一般人と比べたら格段に高い才能なんですが、知識量とか発想力とか、なんらか定量的に評価しやすい力とは別の、その人個人の持つ才能、魅力みたいなものがあるんだと思います。……どこまで言っても俺の考える勝手な妄想ですが。

この人脈の中に居て誠実に努力をしていれば、それこそチャンスも、食いっぱぐれない仕事も、あるいは非合法側の物品も、安定的にまわってくるのかもしれません。それが羨ましいとかズルいとかでは全くなくて、そういう、俺の生きてるサラリーマン社会と違う世界、人脈で成り立っている世界があるんだろうな、という想像をしたという話です。リリー・フランキーという人は俺の考えるそういう人脈の世界の、かなり真ん中に近い場所に居る気がするという、なんかそういう妄想の話でした。

良いとか悪いとか、そういう話ではないです。