「価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない - 発声練習」を読んで

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/next49/20090222/p2
はてなブックマークへのリンクだけど実際にはブックマークのコメントはほとんど読んでません。元エントリを読んだ感想を書こうかなと。
よくできてるなと思ったのはタイトルですね。なるほどなあと思いました。
「精神的な背骨」がない人なんていないと思うんです。周囲に影響されようが流されてようが、最終ジャッジしてるのは常に自分のはずだから。俺は自分を「精神的な背骨がない人間だ」と思っていないので、その部分に関して理解できてないかもしれません。精神的な背骨は誰にだってあるものだと思ってます。
でもその「精神的な背骨」そのものずばりが、学校での研究であるとか日々の仕事であるとかに、そのまま生かせてる人って本当に一握りだと思うんです。自分はどう思う、この部分を突き詰めたい、みたいなものが自分の中に明確にあって、それを自分の日常の主たる取り組みに直結させている人って結構少ないんじゃないかしら。簡単にいうと「別に好きでやってるわけじゃない、与えられたものを全うしてやってるだけです」って人はいっぱいいると思うんですよ。そしてそれは全然悪くないし、当たり前のことだと思うんですよね。どっちだっていいよ、こちとらおまんま食う為にやってんだ、周囲の人間が一番良いって言う内容で着地させたいだけだよ、ってことは全然普通にありえると思ってます。データやテストの結果や他からの依頼や、そういう自分の意思にかかわらない部分で取り組みに対する判断が完了することは、ままあるはずです。
俺は大学で研究ってのをしたことないんで、全然まとはずれだったらすみません。話を仕事に置き換えさせてもらっていいですか? 仕事に置き換えた場合、明確なビジョンや突き詰めたい目標、近づけたい未来を持って取り組んでる人なんてそう多くないと思うんです。与えられた業務を全うするのが使命で、目の前の問題を日々クリアすることに全力をつくすことを生業にしてる人はいっぱいいます。その人たちに「今後あなたはどうしたいの、誰かに決めてもらうの、精神的な背骨がないんじゃないの」って言うのは違うと思うんです。その人たちの精神的な背骨は仕事には使われてない、ってこといくらでもあると思う。だから判断を迫られた時に、自分の中に展望がなくて、誰かに(何かに)頼ってしまう。それは全然、普通にあることで、恥じたり悔い改めたりしなきゃいけないようなことではない。精神的な背骨が、与えられている使命や取り組みに直結していない、ってだけのお話だから。「さあね。何でもいいっすよ別に」ぐらいのもんですよ。ちなみに、当然ですけど、それは不真面目とか不誠実とかとは違いますよ。別にちゃんとやるべきことを誠意を持ってみんなやってる。やるべきことをちゃんとやるってことと、精神的な背骨の実現とは全然別の話ですから。
で、元エントリの著者さんも、別に良い/悪いの話なんてしてないってことなんですよね。タイトルにあるとおり「表現者になれない」って言ってるだけなんです。「日常の手の届く範囲の人たちとやりとりする時に発生する表現」ではなく、不特定多数の人に、全方位に向けて発信する「これはこうだ、これはこう思う」みたいな表現をする人にはなれないよと。そういうのは表現というものに対して精神的な背骨がある人がやることだ、ってことですよ。
元エントリを贈られた卒業生の方は、表現者には向いてないよとは言われたわけですけども、それが何、ってことですよね。誰もが表現者である必要なんてないし、実際違うし。インターネットだの何だのを使って不特定多数の人に向けて自分の意見を表現するなんて、人間という一個の生物として行なうこととしては、実際にはちょっと狂った行動なんじゃないか、誰もがやるようなことじゃあないんじゃないか、って思ってます。
あれ? 話それちゃったかな? まあそんなことを感じました。